2018年の投稿


尼崎の歴史物語 第6回「源義経ゆかりの地」

尼崎の歴史06

中尊寺金色堂をご存じの方は多いでしょう。東北地方一帯で栄華を誇った奥州藤原氏の象徴とも言える建物です。

建物の内外ほとんどが金箔に覆われたとても豪華な建物で、1951年に国宝建造物第1号に指定されています(2011年には「平泉の文化遺産」として世界遺産にも登録されています)。しかし、それほど反映していた奥州藤原氏も1189年に源頼朝によって滅ぼされてしまいます。
 

ここまで読んで、なぜ尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるの?と疑問に思われた方は多いと思います。

尼崎の歴史で奥州藤原氏が出てくるのは、奥州藤原氏滅亡のきっかけとなる出来事がここ尼崎で起きたからです。
奥州藤原氏滅亡の直接のきっかけは、奥州藤原氏第三代秀衡が源義経を匿ったためであるとされています。

 
それでは義経はなぜ奥州の地に渡ったのでしょうか。

義経は、兄源頼朝と仲違いした後、九州に渡って頼朝に対抗しようとしました。義経は京都から西に向かい、大物まで来ました(位置は少し移されていますが義経弁慶隠家跡という碑が現在も大物主神社境内に残されています。)。

尼崎の義経弁慶隠家跡

 

ところが、現在の大物主神社のあたりから船で九州に向かおうと出向した際に、暴風雨に遭遇し堺に流れ着いてしまいます。

これによって義経は九州行きを断念し、奥州へ向かうことになります。
義経が暴風雨に遭遇せず九州に行くことができていたら、歴史は今と少し変わったものになっていたことでしょう。


阪神7青年会議所合同例会10月12日(金)18:00~

事業名称
阪神7青年会議所合同例会

実施日時
2018年10月12日(金) 受付17:30 開会18:30

開催場所

神戸ベイシェラトンホテル&タワーズ(ボールルーム六甲)

神戸市東灘区向洋町中2丁目13番地(六甲アイランド)

古市憲寿氏に「僕たちの前途~JAYCEEの可能性~」をテーマに講演を行っていただきます。
我々自身が相互のつながりと絆を深めて一体感を高めるとともに,それぞれが阪神地域のリーダーとして,現代社会を深く理解するとともに,地域社会の継続的な活性化の機会とする例会です。忘れずにご予定おきください。


尼崎の歴史物語 第5回「尼崎と近松門左衛門」

尼崎の歴史 尼崎と近松門左衛門

尼崎は東洋のシェイクスピアと呼ばれた近松門左衛門とゆかりがある町です。

近松門左衛門(1653~1724 /本名 杉森 重盛 )

越前藩士の杉森信義の次男として福井に生まれ、幼名を次郎吉といいました。
後に浄瑠璃、歌舞伎作者として活躍しました。宇治嘉太夫や竹本義太夫に浄瑠璃を、また坂田藤十郎には歌舞伎狂言を提供しました。宝永3年以降に大阪に移住し、ここ尼崎の地をしばしば訪れました。

享保9年(1724年)に亡くなりましたが、尼崎広済寺に葬られました。作品は100編を超えていますが、名作が多く、なかでも「曽根崎心中」「冥途の飛脚」「国性爺合戦」「心中天の網島」は傑作として特に有名です。近松門左衛門は世界に誇るべき日本最高の劇詩人といえます。

なぜ尼崎と近松なの?

近松門左衛門は、大阪に住んでいたころに、久々知の日蓮宗の広済寺を度々訪れています。寺本堂の裏には「近松部屋」と呼ばれる彼の仕事部屋があり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。

当時、広済寺は廃寺同然で近松は住職の日昌上人が寺を再興するに当たり尽力し、また母親の法要を広済寺にて行うなど、上人とも親交が深かったようです。

近松は、自らの墓をここに残しており、墓所は昭和41年9月に国定史跡となりました。
近松の墓所があるということで、広済寺には芸能関係者の参詣やゆかりの品の奉納がしばしばあります。また近松作品も初演当時とは姿を変えながらも尼崎をはじめ人々に親しまれ続けています。


9月度例会~南海トラフ地震ニ備エヨ~

【9月度例会〜南海トラフ地震ニ備エヨ】

今後起こりうる可能性のある災害発生時、自分が何をすべきか知り、リーダーとして行動出来るようになる為に、災害発生時のシュミレーションゲームを取り入れた例会を行いました。実際に災害に直面したときの優先順位や情報収集の重要性を学ぶことのできる例会でした。


尼崎の歴史物語 第4回「尼崎市の市外局番」

尼崎の歴史 尼崎市の市外局番

尼崎市の市外局番は06で大阪と同じとなっています。
兵庫県の他の自治体は07から始まる市外局番なのになぜ尼崎市だけ06なのでしょうか。
06になったのは尼崎市にあった世界最大級の紡績会社,尼崎紡績(現ユニチカ株式会社)が理由と言われています。
尼崎紡績の工場が建設されたのは1889年(明治22年)ですが,1893年(明治26年)に大阪電話交換局が開設された際に,尼崎紡績が費用を負担して大阪から尼崎市の工場まで電話線を引き,尼崎紡績に電話を通しました。

尼崎紡績が電話線を大阪電話交換局から尼崎市まで引いたことで,市外局番が大阪と同じ06になったということです。
尼崎紡績の本社事務所として用いられた建物は1900年(明治33年)に竣工しましたが,尼崎市に現存する最古の洋風建築として尼崎紡績の繁栄の歴史を今に伝えています。
本社事務所はユニチカ記念館として毎週水曜日に一般公開されており,尼崎市の建物としては最も早く兵庫県から景観形成重要建造物として指定されました。



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